2008年1月7日月曜日

大岡昇平 「野火」

ブログの書き方もなかなか難しいですね。子供以外のことも書いていきたいと考えています。
まずは、読んだ本のことから。

さて、大岡昇平「野火」です。読むきっかけとなったのは月刊誌「世界」での澤地久枝さんと佐高信さんの対談「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」です。硬い文章が多いこの月刊誌の中では大変読みやすく、また、興味深い内容で、最近は購入したら最初に開くページとなっていました。
大岡昇平のことは名前だけは知っていましたが、これまで読んだことのない数多くの作家!のひとりでした。対談で知った彼の経験、それに裏打ちされたものの見方、フランス文学(スタンダール)を学んでいること、中原中也との交流などに興味がわき、彼の本を読んでみることにした次第です。いつも思いつきで飛びついています(^^)

振り返ってみると連載は8月~10月号に掲載されており、その間に読んだ関連の本は順に、ちょうど出版された「戦争」、横道にそれてスタンダールの「赤と黒」、「パルムの僧院」、たまたま本屋で見つけて衝動買いした「レイテ戦記」、中古本「俘虜記」、です。
ついでに書いておくと、連載にはそのほかに五味川純平のことに触れてあり、学生時代に読んだ「人間の条件」を思い出すとともに(今回、映画をはじめで見てみました!)、澤地さんが助手をされていたことをはじめて知り、なるほど!とわけもわからず納得してしまいました。

さて、1月に入ってからなかなか落ち着かない生活ですが、やっと「野火」を読了。

先に「レイテ戦記」を読み、レイテでの戦争の実態をこれでもかというほどの詳細な記録に圧倒されていたせいか、今度は小説ということでページ数は少なくなる分、創造力に対する刺激が強い内容だなというのが読後の感想です。当時のレイテ戦では陸でも海でも人がこれでもかというくらい死んでいきます。その死に様は無残としかいいようがありません。弾に貫かれ、弾き飛ばされ、吹き飛ばされ、グリャリとつぶされ、土にまみれ、単なる肉片となって死んでいきます。しかも何十人、何百人が一瞬にです。(レイテに関しての本としては、渡辺清「戦艦武蔵の最後」も戦争の実態とは何かという点で非常に参考になります。)

作者の人間や社会についての表現、分析が大変鋭く、わかりやすい描写で細やかに書いてある一連の著書に驚いているところです。もう少し、この大岡昇平を追いかけてみたいと思っています。

「野火」の中で印象に残った部分を少し抜粋します。戦争で生き残った主人公が精神病院に入った場面での独白です。「この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る小数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等にだまされたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中であったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」

もうひとつ書いておきます。
「俘虜記」では、主人公をはじめとする「俘虜」にとっての日本降伏の日付は8月10日、ポツダム宣言の日と書いています。しかし、日本が宣言受諾の回答を行い、戦闘停止を命じる8月15日まで戦争は継続します。「我々は日本政府が1日も早く回答することを望むね。」というアメリカ兵に対し、主人公は「私は日本の戦争犯罪人が自己の生命と面子のために、天皇を口実に抵抗しているのだろうと答えておいた。」。また、「俘虜の生物学的感情から推せば、八月十一日から十四日まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。」。

8月14日夜の大阪大空襲の思い出します。どうして、このようなことがこのようなことが起きてしまったのか。いろいろな要因が重なっているかと思いますが、権力と権限を持っている人間の個人としての想像力・決断力の欠如も大きいのかなと思いました。

0 件のコメント: